ひわの葉薬(トップ) > 掌編 > 9


 

空五倍子(うつぶし)

 数日前から、僕の腕にはこぶがあります。一体なぜかはわかりませんが、とにかく こぶです。ぶつけた覚えもなければ、痛みもない変なこぶです。

 日ごろの不摂生がたたったのでしょう。これは、本格的にサプリメント等で栄養を摂る必要が いや、ちゃんと朝起きて夜寝るというきっちりしたタイムスケジュールを組むのが先かな。

 最近は、夜中にアパートの隣の人のギリギリ言う歯軋りで起こされたりして、ちょっとストレスがたまっています。こぶがいつ出来たのかはわかりませんが、もしかしたら不摂生とストレスが原因かもしれません。ぶつけた覚えがない以上、生活態度くらいしか思い当たることもないですし。

 目立たない場所なので職場でも指をさされたりすることがないのですが、なんとも気になって仕方がなくて、そうだ 明日 病院に行って相談してみようかなあ なんて思っていた頃。

 朝っぱらからすさまじい歯軋りで目が覚めました。これはもう、尋常じゃない。耳をふさいでもまだ聞こえてくる歯軋りに、僕は眉間に五本ほどシワを寄せながら起き上がって、隣の人に文句を言うべく着替えもしないで外に出ました。

 怒りのせいか、寒さもまったく感じません。乱暴にドアを叩いて、呼びかけます。

 

「ちょっと! 起きてくださいよ!」

 

 けれどどんなに叩いてもまったく起きる気配もなく、歯軋りはいっそううるさくなるばかり。ドアを突き抜けて聞こえてくる歯軋りなんて、一体どうなってるんだろう。

 仕方なく大家さんに電話をして起こしてもらおうと家に戻り、ふと見た玄関にかけてある鏡に、一瞬 異様なモノが映って

 よく見るとそれは こぶだらけの不気味な顔 思わずのけぞると鏡の中のソレものけぞって、 ってことは これは 僕?

 思わず触れた顔のこぶがぼろりと崩れ、中から細長い虫が びっしりと身体をくねらせていて  あのギリギリ言う音は歯軋りじゃなく、虫が肉をむさぼる音だったのか

 そこで僕の思考は途切れ  どうやら虫が 脳の一部を食い尽くしたらしい

 

はずれ

 実は僕、一週間前から ずっと不吉な夢を見ています。

 大雨の中、仕事で疲れた身体を引きずりつつ部屋に帰ってネクタイをゆるめると、何やら物音がします。玄関に見に行ってみても何事もなく 誰もおらず 変だなあと引き返そうとした瞬間、いきなり後ろから鎌で刺されるのです。

 一週間毎日その夢を見ているせいで、最初は嫌だなあと思うだけだった僕もだんだんと怖くなり、家に帰るのが恐ろしくなってきています。

 そして今日、午前中の快晴がウソのように夜は土砂降り。仕事で疲れた身体にこの仕打ちはどういう了見なのかと心中ブツブツぼやきつつ家に帰ってドアを開け、電気をつけてネクタイをゆるめようとしたその時、僕は夢の内容を思い出しました。

 ……部屋の中は、雨の音しか聞こえてきません。物音なんてするはずもない。ああ、けど、あまりに疲れて帰ってきたせいで鍵を回したかどうかわからない。もしかしたら、ドアに鍵がかかっていなかったかも……

 恐ろしくなってきた僕は、ネクタイをゆるめる前に玄関に行ってみました。クローゼット、浴室、トイレ、靴箱まで捜してみましたが、やっぱり誰もいません。この部屋はワンルームですから、他に隠れる所なんてありません。

 ……夢を気にするなんて、馬鹿か 僕は。一息ついて、ビールでも飲もうかなあとネクタイを ゆる め ると、 どこからか カタン と物音。

 体温がひゅっと下がって、息を呑む僕。

 玄関に行ってはいけない。その場にとどまり、辺りを見回して、けれどどこも変わった所はありません。

 ……疲れているのかな。僕は はーっと息をついて台所に座り込みました。ビールでも飲んで早く寝よう。そう思った時、

 カタン。

 顔を上げても、どこにも何も。……いや、そういえば、タンスは探していなかった。部屋の隅にある、背の高い洋服ダンス。もしかして、あそこから?

 洋服ダンスを睨みつけて、助けを呼ばなきゃ 電話はどこだと目をぐるぐるさせつつ、後ずさると、

 

「はずれ」

 

 という声とともに、僕の後ろにあった冷蔵庫の扉がバタンと開きました。

 

いきどまり

 彼女が洞窟を怖々ながら進んでゆくのには、訳があるのです。

 ついさっき、彼女と仲の良いお友達二人が彼女を置いて洞窟に入ったっきり、出てこようとしないからです。

 彼女は怖いのが大嫌いですから、真っ暗な洞窟に子供三人だけで入ろうなんて 絶対に嫌なはず。けれどもお友達の二人が「こわくなんてないよ。ここであそぶの!」と彼女にかまわず入っていってしまって、それっきり出てこないから、彼女は自分だけ仲間はずれにされたくなくて 勇気を出して洞窟に入っていったのです。

 洞窟の中は、とても静か。彼女の吐息まで鮮明に聞こえます。

 ここで彼女は妙なことに気がつきました。洞窟が、いきどまりなのです。いきどまりなのに、彼女のお友達二人の姿が見えないのです。

 お友達二人の名前を呼んでみましたが、返事はありません。彼女は半泣きになりながら二人の名前を呼んでいるうち、ようやく見つけました。いきどまりのすぐそば、大きな穴が空いているのです。

 多分ここに落ちたんだ。そう思って少し安心した彼女が穴を覗き込んだ時、彼女のお友達二人と同じように僕の手が彼女の身体を軽く捕らえ 穴の中へと引きずり込みました。

 

結末について

 僕は黙って彼らの会話を聞いています。

 

彼「やっぱりこういう時は美しい少女が美しい言葉を口にしながら、最愛の恋人のために死ぬという悲しい結末が一番しっくり来るんじゃないかな」

彼女「いや違うわ。素敵な王子様がお姫様を命がけでかばって炎に焼かれながら『お前のために死ねるなら本望だ』という捨て台詞をつぶやきながら自ら命の火を消すのが最良よ」

彼「そんなの夢がないね。やはり美しい少女は美しいままで思い出に残っているべきなんだ。それにしても君は美しいね」

彼女「ダメよ。素敵な男が女のためにかっこよく身体を張るってぇのが古来からの伝統的物語の典型よ。それにしてもあなたって素敵」

彼「この悲しいストーリーの結末には君のような美しい女の死こそふさわしい」

彼女「いえ、あなたのような素敵な男の死の方がもっとふさわしいわ」

 

 人が譲り合う姿を見るのが大好きな僕は、こうしてみんな片付けた後にカップルに向かって「どっちか一人は助けてやる」というのが趣味なのです。

 ああ、譲り合いって美しいなあ。

 

愛の形

 ひとつ 話をしてあげようか。

 僕らが今 生きているこの世界は「前後」「左右」「上下」の三つの次元で出来た立体だね。これに「時間」という概念を加えると話がややこしくなるから割愛するけれど、この三次元上の……どこでもいい、任意の一点を、異なるふたつの物質が同時に占有することは 不可能だね。言い換えようか。ソコに違うモノ二つを同時に置くことはできないよね。ちっとも難しくはないよ。

 ところで話は少し変わるのだけど、燃え上がる愛を感じた二人は 普段じゃ考えられないような 甘い甘いセリフを口にするよね。たとえば「ぼくが一生まもってみせるよ」だとか「わたしずっとあなたのそばにいるわ」だとかいった、ロマンティックな言葉の数々を連ねて 自分の愛を表現するね。愛は言葉じゃなくて態度だと言うけれど、そうとばかりも言えないんだよ。何しろ、「言葉」は「態度」でもあるのだから。

 その、愛しているという状態を表すためによく用いられるのが「あなたとひとつになりたい」。……うん。そう。君が随分と前に 僕に言ったせりふだ。けれどそれは僕がさっきもいったように不可能。物理的にはね。精神的な意味だから「あなたとひとつになりたい」と言っている訳で、何も本人たちは物理的にひとつになりたいなんて考えちゃあ いない。

 しかしよくよく考えてみると、愛というやつは自分と他人との同化を目的としているように思える。だとしたら、細胞やDNAが同一種である人間は物理的にも一緒になれるんじゃないかなあ なんて ロマンティックなことを考えたりするんだけれども。

 そう心配そうな顔をしなくてもいいよ。この大ミキサーのスイッチを押せば勝手に刃が回って一時間もすれば 僕たちはぐちゃぐちゃのどろどろ きっと誰が誰だかわからなくなるまで同一化するよ。何しろ 君は 明日 あの男と結婚してしまうんだもんなあ。あまり 時間も ないことだしなあ。

 それじゃあ、スイッチオン。

 

マリコさん

 先輩の家で部長の悪口を言いながらビールを飲んでいた時のこと。それまでいい気分で飲んでいた先輩が 突然 時計を見てビール缶を取り落としたのです。

 

「ど、どうしたんですか先輩」

「やばい、今日 彼女が来る日だった。あいつ異常に嫉妬深くってさ、男と二人っきりで飲んでたなんてわかったらどんな顔するか」

「妄想たくましい彼女のようですね先輩。じゃあ僕 帰りますんで」

「いやあと二・三分で来ちゃうと思う。これ片付けてる暇もねえし」

「なんでそんな余裕のない待ち合わせを」

「しょうがねえ。お前、ちょっとベッドの下に隠れてろ。大丈夫、別に変なこと する訳じゃねえし」

 

 なんて言って、ほろ酔い気分の先輩 僕をベッドに押し込んで、周りをダンボール箱で固めてしまって。いやにほこりっぽいけど、僕も僕で酔っているものだから まあいいか とお気楽に考えて息を潜めます。

 そうこうしている内に、ガチャリ と鍵の開く音がしました。どうやら彼女がいらっしゃった様子。

 

『よう。早かったな。掃除してないけど適当にあがって。え? なんだよ、一人で飲んでちゃいけねえのかよ』

 

 何を話しているんだかさっぱりわかりませんが、先輩はベッドの上にいるようです。

 

『どうしたんだ、マリコ。神妙な顔しちゃってさ。何、お前も飲みたいんだったら別に……そうじゃないのか? じゃあなんだよ』

 

 彼女さんはマリコという名前のようです。へえ、知らない人だ。

 ここで僕は ふと気付きました。先輩はさっきからマリコさんと会話をしているようなのですが、マリコさんの声は 小さいせいか まったく聞こえないのです。

 

『え? ……なんだよ、別に浮気とかそんなんじゃ…… おい、俺を疑ってるのか? 違うよ、そんなんじゃない。大体お前はいつもそうやって俺を疑ってばっかりで、いい加減うんざりしてくるぜ。そういう言い方が気に入らないんだよ。……なんだよ、おい、ちょっと待て、おいっ!』

 

 先輩の声音が明らかに動揺の色を見せた時、突然 ふっつりと 声が途切れ ぞっとするほど低い声が響き

 

『 あなたまで わたしを うらぎるつもりなの 』

 

 それから続く 奇妙な沈黙。

 物音などはしなかったから 暴力沙汰があった訳ではないのだろうけど。混乱しながらも、僕はゆっくり ベッドの周りの荷物をどけて 辺りを見回して けれども先輩はどこにもいない。

 先輩は 一体 どこへ? 見回した僕の目は、僕が来た時には開け放たれていたトイレのドアへ。

 思い切って開けてみたけれど、トイレの中にはやっぱり誰もいません。後ろ手にドアを閉め た 時、ガタ と 物音。振り返ってみても 何もない。

 僕は思わずつぶやきました。

 

「……『マリコ』さん?」

 

ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ

 

旅館の夜

 二十歳になりたての頃、友人二人と旅行に行ったときのこと。

 しこたま酒を呑み 翌日になって全員二日酔いでぐったり寝込みましたが、若かったせいか 馬鹿だったせいか(多分後者です)夜になるとまたアルコールが恋しくなり、三人で「酒買ってこよーぜ!」てなことになりました。

 酒屋で一升瓶を何本も買い込み エレベーターを出て部屋に戻ろうとしましたら、後ろから「あのー」と女性と思しき声が。振り返ってみますと、浴衣姿の女子四人組。

 

「私たちもこれから呑むんですけど、よかったらご一緒しません?」

「ええっ! マジで!?」

「行く行く! 呑む呑む!」

 

 ……てな訳で、男三人と女四人で持ち寄ったつまみやら酒やらを並べて好き勝手に騒ぎまくり、S君なんか 普段の寡黙ぶりはどこへやら 目をつけた可愛いスポーツガールのYさんを口説いていやがります。なんだ 一人だけ一夏のアバンチュール を楽しむつもりですか! 畜生! ずるい! 負けじとばかりに僕も呑みながらロングヘアのぽっちゃり美人Eさんをナンパし始めました。

 Eさんは酔っ払っているせいかまんざらでもない様子で、「んじゃちょっとアタシこれからこの人と逃避行してきま〜す」なんて赤い顔で腕を組んで宣言してしまい、周りも手を叩いてひやかし「行って来い! 性病には気をつけろよ!」と気遣う 気のいいろくでなしばかりです(一番のろくでなしは僕ですが)。

 部屋を出ると廊下のひんやりした空気が漂っていましたが、脳髄までアルコールに侵されていたせいで僕もEさんも正気に戻ることはなく、他愛もない話をしながら野郎三人がとってある部屋へ向かおうとドアを閉め、廊下を曲がったところで W君と鉢合わせ。そういえば、さっき トイレに行くと言っていたけど、と思って後ろを見てみれば、彼もどうやら逢引の途中だった模様、女の子がいるじゃ ないですか。ちょいとばかり酒に弱いのか顔が青いですが。

 気まずそうに顔を赤らめるW君に「お前もか! いや実は俺もだ!」と僕。「やっだーもうトイレだなんてウソつかなくていいのにー!」とEさん。酔っ払ってます。いや俺はトイレから戻る途中で会っただけで とあたふた言い訳するW君のことは完全に無視し、僕ら二人は笑いながら「頑張ってねー!」と大声でお見送り。苦情が出なかったのが信じられませんが、W君は足早に女の子の手を引いて 右手廊下奥の部屋に行ってしまいました。

 

「なんだ、からかいがいのない奴だなー」

「えー純情ぽくて可愛いじゃーん」

「あー確かにねえ、ハハハハ!」

「キャハハハ!」

 

 笑ってから さてそれじゃ とばかりに僕らのとってある部屋に行こうとEさんの腰を抱きつつ廊下向かいのドアを開けて、そこでふと 僕はドアノブの冷たさで我に返りました。

 

「? どうかした?」

「あー、うん、ちょっと」

「何よう」

「なんであいつ、奥の部屋に行ったんだろうと思って。俺ら Eさんたちが泊まってる部屋の前にいたのに まるっきり無視してったじゃん」

「空き部屋だったんでしょー?」

 

 Eさんはそう言いましたが、僕らはここに来た時に空き部屋を確認していません。いくら酔っ払っていたとはいえ、W君がためらいもなく奥の部屋のドアを開けるのはちょっと無謀です。それに、何より、今から考えてみれば 女の子たちは四人しか来ていないのに、部屋に三人 僕の横にEさんで、あの子は 一体どこから?

 引き止めるEさんをなだめてドアを開けて出てみれば、W君の入っていった右手 そもそも 廊下なんてなくて。

 僕は顔面蒼白で、思わず女の子たちの部屋に駆け込みました。

 

「た、大変だ!」

「ああ?」

「どうかしたの?」

「宴会なんかしてる場合じゃないって、Wが」

「Wがどうかした?」

「ええっと、あの、その、なんか、消えたんだよ! 消えたんだ!」

「はあ?」

「呑み足りないんじゃないの?」

「いやそーじゃなくて! 本当に! Wが」

「うるせえぞ、俺がどうかしたか」

「うわあ!?」

 

 振り向いてみればW君が、女の子を連れて僕の真後ろにいました。驚いてのけぞる僕。

 

「さっきからうるせーっつーの! いくらここの階に俺ら以外いねえからって、いいトコだったのに邪魔すんなよ!」

「いやいいトコだったのは謝るけど! っていうか俺だっていいトコだったんだけど! 今までどこにいたんだよ!」

「どこって、俺らの部屋だよ。右の廊下の突き当たり」

「はあ?」

「だから、俺とコイツはずっとそこにいたんだよ!」

 

 狐につままれたような気分で黙り込む僕に、今までずっと黙っていたW君の後ろの女の子が わずかに震えながら 口を開きました。

 

「……ねえ、さっき あなたと一緒にいた女の人 誰?」

「……誰って、Eさん……」

「そう、で、Eさんって誰?」

「だ、誰って……」

 

 僕は少し黙って、部屋を出てみました。

 すると さっきまでは確かになかった右手の廊下がちゃんとある代わりに、向かいにあったはずの部屋のドアも Eさんも いつの間にか消えてなくなっていたのです。

 

条件反射

「今日はギョウザ作ってみたのよ。ねえ、目 瞑って 『あーん』して?」

「え? な なんだか恥ずかしいな」

「いいから いいから。はい あーん」

「あーん。……う、これは美味い! うん、皮の上から肉汁が染み出してボリュームも……あれ」

 

 目を開けてみれば彼女はいなくて 僕の足元に転がるギョウザ ひとつ ふたつ。

 いけない、うっかりギョウザごと 彼女を食べてしまったらしい。

 

男子校

 からかわれやすい体質のクラスメイトを皆でからかっていた時に お調子者のY君がちょっと気取って「ククク、せいぜい俺の足元であがくがいい」と言おうとして「ククク、せいぜい俺の足元であえぐがいい」と言い間違い 昨日から彼のあだ名は『ハードゲイ』。

 

ジュース

 よく 手術を行う時に、麻酔をかけますね。あの麻酔薬というのはけっこうな曲者でありまして、使用する薬剤によっては自白剤的効果をもたらすものがあります。普段は隠している本音や過去のやましいことなどを うわごとでペラペラしゃべってしまうのです。看護師さんなどは、あんまりすごいのを聞いてしまうと 手術後に平静でいるのが大変だそうですが。

 

「ああ、ジュースが飲みたいわ」

 

 だとすると これもやはりうわごとなのかなあ と、僕はイスにガムテープで彼女を固定しながら思っています。イスの足に落ちていた注射器は片付けますが、薬ビンはすべてフタをしてあるから まあいいか。

 

「世界はジュースで出来ているのよ。人間の思考は体内を循環するジュースによって制御されているわ。そう、私は見たわ。生まれる前に天界の神々がこぞって生命の木の果実をむさぼりジュースを作って飲んでいるのを見たわ」

 

 なんだか話が 私はアトランティスの戦士だった みたいな方向に向かっておりますが、そんなことはどうだっていいのです。僕はいつものように、イスに固定した彼女の服のボタンを、ひとつひとつはずしてゆきます。

 

「甘美にして芳醇な味わいを人に渡してなるものかとばかりに、神々は果実を独り占めにしたわ。だから私はこっそり果実を奪ってやったのよ。奪ってやったの。そして彼らの玩具の中に詰めてやったの。あの果実をジュースにすると とても美味しいのだわ。舌がとろけてしまうくらいに。果実酒なんてだめよ。あの生の果肉を発酵させてしまうなんて愚の骨頂だわ。ああ、欲しい、ジュースが欲しい」

「そんなにジュースが欲しいのなら後であげますよ。何のジュースかは言いませんが」

「まあ、言われてみれば本当にそうね。ああ欲しい、欲しい、まるでこれは麻薬のようだわ。もう我慢できない、あなたのジュースが欲しい。そしてところで神々の玩具とは、いわゆる人間のことなのだわ。私は人間に果実を詰めてジュースを作ったのだわ、そうだわ、人間、あなた 人間なのだわ!」

 

 イスの手すりに巻きつけたガムテープが バリバリッとはがれて 彼女の両手が僕の頭を捕らえ 押し倒し 鋭い犬歯が僕の頚動脈に突き刺さる一瞬前 僕の目は転がった薬ビンの『幻覚剤リゼルジックアシッド』と書いてあるラベルを捕らえ、すぐに暗転して見えなくなる

 

 


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