ひわの葉薬(トップ) > 掌編 > 17


 

右と左

「きっと彼 右と左を間違えたのです」

 

 彼女は、まるで昆虫のような澄んだ目をして 話し始めます。

 

「いつだったか彼がこんな話を聞かせてくれました。

『僕 目覚める時 いつも左側からベッドを降りるのだけれども たまに間違えて右側から起きてしまいそうになる。右に落ちそうになってあわてて現実に気付き、目をこすりながら左からベッドを降りる。

でも最近仕事が立て込んでいて 忙しくて 朝起きるのがとても苦痛で、ついつい寝ぼけてしまうことがよくあるんだ。ぼんやりと手を伸ばして床に触れたり、左側にあるはずの目覚ましを右側で捜してしまったり。

この間はついに右側に足を下ろしてしまった。すぐに気付いて、あわてて足を戻して左から降りたけれど、その内何も気付かずに右からベッドを降りてしまうかもしれない。そうなったら、僕はどうなるんだろうねぇ』

彼は 彼の部屋の中で そう冗談めかしてケタケタと笑っていたのですけれど、きっと彼 右と左を間違えたから 右の方の世界に行ってしまったから、今も行方知れずなのでしょう。

だって彼の部屋に行くたび見ていたけれど 彼のベッドの右側はいつもピッタリ壁にくっついていて、足を下ろす隙間なんかどこにもなかった」

 

人間そっくり

 あなたは死にたいというけれど あなた一人の命じゃないんです。

 あなたの中には 500種以上最低100兆もの体内細菌が、体表面には掌だけでブドウ球菌など数万の細菌が、各毛穴ごとに1〜5匹総計40万匹以上のニキビダニが、一緒に生きているんです。

 

ただいまハニー

 ちょっと前から病院にいたのですが 数ヶ月の療養のおかげで 今ではこの通り 元気溌剌でありますよ。

 もうすぐ 僕の妻が帰ってきます。いつも遅くまで頑張って働いている、えらい女性です。残業続きで疲れ果てて、長期出張を言い渡されても文句ひとつ言わずに仕事をします。僕は妻のことが好きでたまりません。

 僕 ダイニングで指の傷にバンドエイドを巻きながら、妻を待っています。

 待つというのも、なかなかに集中力を要する仕事です。

 時計の音がとてもうるさいので、電池を抜いてしまいました。電話が鳴ると集中できないので、電話線も抜いてあります。

 まだかなあ まだかなあ まだかなあ まだかなあ

 外はとても静かです。

 妻はまだ帰ってきません。

 バンドエイドを巻くのにも飽きてきました。何度も巻いたり剥がしたりを繰り返したせいで、ちっとも傷がふさがりません。

 まだかなあ まだかなあ まだかなあ まだかなあ また いつものあの男と 会っているのかなあ。

 病院の人たちが 割れた窓ガラスを見つけてここに来ない内に 妻に帰ってきてもらわなきゃいけないのになあ。

 

瓶詰め

 昔 とても好きだった女の子がおりました。

 よく行く公園に おばあちゃんに連れられて遊びに来ていたその女の子は、おとうさんとおかあさんが共働きなのだそうで、同じ境遇の僕とよく遊ぶようになったのです。

 ところがある日 少女漫画やギャルゲーにありがちな展開で申し訳ないのですが 僕は引っ越さなければならなくなりました。

 最後に会う日、彼女はわんわん泣きながら 可愛らしい小指を絡めてまたいつか会おうと約束した後、その日漫画だかアニメだかで知ったという タイムカプセル を埋めようと言い出したのです。

 ゴミ捨て場から拾った小さなジャムの瓶をよく洗って、公園の隅っこ 桜の木の下 深く深く掘って埋めました。

「ふたりだけのひみつね」

 彼女は涙目でそう言いました。

「だれにもいっちゃだめだよ。ないしょなんだから」

 

 ……うん 確かに そう まちがいない。

 もう随分と昔のことだけど、確かにこの桜の木の下 深く深く掘って ジャムの瓶を埋めました。

 今では彼女もどこか遠くの土地に行ってしまったらしく 会うことは叶いませんでしたが、あの日以来一度も来ることのなかったこの場所 たくさんの思い出が詰まっていて 僕 なんとしてもあの瓶を見つけ出さなきゃあという気に なり

 持参したシャベルでもってざくざく掘った土の中 掘って掘って 存外深い場所からようやく顔を出したジャムの瓶 真っ黒になった手でつかむ刹那 そういえばこの中に何を入れたのか覚えていない 思い出せない ふとそう思う   誰かの冷たい両手で心臓をつかまれたような 急に生暖かい風が首筋を撫でたような そんな気になり

 気がつくと僕の手の中にあった瓶の中 土を拭いフタを取って曇る中身をよく見てみれば からからにひからびた薄汚い胎児の死骸がひとつ

 ……そこでようやく僕は 何故僕が引っ越さなきゃならなくなったか 思い出しました。

 

禁字

友人が、祖父から聞いたことだと言って 教えてくれた話。

以前は平仮名の種類が今よりずっと多かったので、みな結構好き勝手に字を書いていました。しかし明治三十三年 平仮名の種類が改められるにあたり  村人たちは喧々諤々 相談し合って、それまでその村だけで遣われていた異体字の数種類を 代々村長だけが継ぐことにしよう、となりました。平生の庶事には 無用なこの字 オバヤメサマノオンジ と呼ばれておりました。

時代は流れて戦争続きになり 村長の一人息子も出征した折、村長が庭の敷石に躓き頭を打って ぽっくり逝ってしまいます。

困り果てた村人たちは、村長の通夜の晩に寄り集まり 雪が屋根を押す音の響く中 めいめい首をひねりました。

ちょうどその頃、口寄せのできるという瞽女が村へ巡ってきていました。めくらであっても字の書き方くらいは教えてもらえるだろうと、村人たちは藁にもすがる思いで瞽女を呼びます。

程なくしてやってきた瞽女は 囲炉裏の火がくらくらと燃える前にうつむき、程なくして降りてきた村長の霊の曰く「一子相伝としてきたものを他言する 訳にはいかない。自分の息子は必ず戦地から帰ってくる。それまでは、万事この字で代用すべし」 そして霊は瞽女に燃える囲炉裏から灰をとらせ 床へ文字ら しき数種類の線を書き付けました。以来、村ではその字を代用するようになりました。

やがて戦争は終わり 口寄せの霊が言ったとおり、村長の息子が五体満足で帰ってきます。

息子は村人から父親の死と口寄せの話を聞き 村人の代用していたという字を見て いっぺんに顔を青ざめさせ、あわてて今後は一切それを遣わないよう厳命し、わけは誰にも何も語りませんでした。

 

「何故だと思う?」

 

彼は穏やかに微笑みましたが、僕にはわかりませんでした。

 

「僕の祖父は戦地で多大な功績を挙げたのだけど、敗戦により帰国する前 解放する捕虜の将校から『我が国の兵はみな勇敢だが、日本軍の兵士の内 白 い服を着た部隊は特に勇敢だった』と賞賛めいた言葉をもらった。けれど、日本軍には白い服を着た部隊なんていなかった。何も知らぬ将校はこうも言った。 『あの白い服の者たちは、どうして弾に当たっても死なないのだ』と」

 

彼は僕の書いた本を閉じ、静かに差し出して言いました。

 

「口寄せが何を語ったのか どんな文字を書き付けたのかは知らないけれども、祖父のいた軍が連戦連勝するようになったのは まさにあの口寄せがオバヤメサマノオンジを書いた通夜の晩からだった。だからねえ、普通のひとは そんな字を知っちゃあならない」

「けど、言語学者のはしくれとしちゃあ 未知の文字が眠っているのを黙って見過ごせない」

「言語学者のはしくれなら、こんな辺鄙な村のつまらない文字を調べるより もっと方言を勉強するといいよ。 ばやめる という言葉、知っているか な。 さまよう という意味だ。さまようものを鎮める字、それがこの村で僕を含めた村長が代々葬礼で故人の魂のゆき先を書く オバヤメサマノオンジ の所以だよ」

 

かくれんぼ

 たぶん 十五年くらい前のことです。僕の記憶にかすかに残る、小学校のグラウンドの片隅 笹が生い茂る築山でのことです。

 築山には十字型の土管が通っていて、インドア派で根暗で運動音痴でナードだった僕は 体育の授業に出たくなくて よくその中にこもっていました。所詮子供の浅知恵 先生にあっさり見つかって、説教をくらいながらズルズルと連行されるのが常でした。

 何故 先生にあっさり見つかることがわかっていながら、何度も何度もその土管の中に脚を踏み入れたのかと申しますと、僕 体育の授業がいやな時 決まってある友達と遊んでいたからなのです。

 今では顔も名前も浮かばない、けれども僕にとってとても大切な友達 その子とかくれんぼで遊んでいて 今は物置と化した音楽室の隣の楽器室 用務員でさえ入らないせいでほこりだらけの体育館二階 給食室の裏手のトイレ そんなところに隠れていても あの子はすぐに見つけてしまうから、築山の土管の中によく隠れていました。

 思い返せばあの子がいつもかくれんぼの鬼で、僕 その子と何か約束をしていて、そう 確か 三度目に見つかったら     だと、あれ 肝心な部分が空白になっている まあいいや ともかくそんな約束をしていつもかくれんぼをしていたのですけれども、土管の中に隠れていたら絶対に見つからなかったから、三度目になるといつもそこへ逃げ込んだのです。あれ 逃げ込んだのだっけ。まあなんにしても、いったいどうしてあそこだけは見つからなかったのかなあ。

 しかしながら、その友達については何となくわかった気がする。そう 廃校した母校 築山の解体工事 土中から出てきた土管の外側一面 びっしりとこどもの手形がついてたっていう、そんな噂話を聞いたので。

 

迎えに来ました

 夕食の時間はとっくに過ぎて、どれだけ寄宿舎のドアを叩いても応答がない。周りの皆は騒然としているけれど、もうすぐドアが力づくで開けられるところだけど、僕は何となく 彼がもういないのだろうと思っています。

 だって彼は以前、こんな話をしていました。

 

「僕が随分と小さい頃の話だよ。

夜、突然に目が覚めて 両親の隙間から抜け出して寝室に降り立った。その頃はいつも昼間の世界ばかりを見ていたものだから、夜が更けた時間帯というのはまったくの未知で、とてもとても魅力的だった。……余談だが『とても』というのは 本来 好ましくない意味を強調する単語らしいね。

ともかく夜の世界に降り立った幼い僕は、それだけでひどく興奮してしまって、両親が寝ているにも構わずに窓を開けた。家の中と同じように 外も夜なのか 見てみたくなったんだ。

窓の外は確かに夜だった。生温かい風が吹いていて 木々は静かにざわめいて 見たこともない黒い群雲が空を横切っていた。

その光景に見とれていた僕の後ろ 何か視線を感じた。両親が起きたのだろうか そう思って振り向いたが、両親は大きなベッドの上ですやすやと微動だにしない。また顔を窓の外へ戻したが、視線は相変わらず僕の背中を這っている。

思いきって身体ごと後ろを向くと、視線の元がわかった。鏡だ。鏡に僕の姿が映っているんだ。僕はすぐに安心して、すぐに疑問に思った。どうして鏡から視線を感じるのだろう。

そう思った時、鏡の中の僕の口が動いた。現実の僕の口は、ちっとも動いてやしないのに。

驚いて口元を手で覆ったが、鏡の中の僕は変わらず何かをしゃべっている。夜気がそうさせたのか はたまた幼すぎたせいか 僕はその意味もわからず鏡に見入った。鏡の中の僕は、何か同じ言葉を繰り返しているようだった。そうして何かを言い終わった後、必ず首を横へ傾けた。返事をねだるように。

その時僕はどういう返事をしたのか覚えていない。頷いたのか、首を振ったのか、何かしら言葉を返したのか。しかし何か返事をしたのは確かだ。

それ以来 あの時と同じような夜に窓を開け放して鏡を見ると、鏡の中の自分が語りかけてくるようになった。声は聞こえないが、唇でわかる。

『もういいかい』

僕は『まあだだよ』と応える。するとすぐに鏡の中の僕は単なる 物言わぬ鏡像に戻る。

誰に話したとて信じてもらえないから今まで黙ってきたけれど、君には一度見せてあげたいなあ。

でもそれには、あの時と同じような夜でないと駄目なんだ」

 

 恐ろしい音を立ててドアが開きました。

 ドアの向こうにはやっぱり誰もいなくて、開け放たれた窓から吹き込む風がそよぎ 大きな姿見がまんまるい月を映していました。

 

サルビアの花畑:その一

 僕には好きなひとがいて、けれどもそのひとは 真っ赤なサルビアの花畑の前で二人写真を撮った後 病を得て死んでしまって。

 だから僕はしばらくの間 ずっと喪に服していたのだけれど、こんな僕にも好きだと言ってくれる女性が現れたのです。

 その女性と初めてキスをした晩 死んだあの子と二人で撮った写真を見ると あの子はモノスゴイ形相で 僕を睨みつけておりました。

 

サルビアの花畑:その二

 近くの公園まで彼女と散歩に行って、マツバウンランとムラサキサギゴケがいっぱいの場所でシャッターを押し、ある程度満足して帰ってきた翌日のこと。

 写真をプリンターでプリントアウトして、彼女と一緒に寝転びながら見ておりますと、彼女が「あれ」と言ったきり黙りこんでしまいました。いったいどうしたのか。

 

「この花、知らないよ」

「え? 適当に撮ってるから俺もよくわからないよ」

「あの時マツバウンランとムラサキサギゴケが咲いてるって言ってたじゃん」

「ああ、そういえばそんなことも。で、いったい何がどうしたって?」

「……全部」

「はあ」

「全部、見たことない花に変わってるの」

 

 気味悪そうな彼女が手渡してくれた写真には、にっこり笑う彼女の後ろいっぱいに 白いサルビアの花が咲き乱れているのでした。

 

サルビアの花畑:その三

 ええ。だから、わからないのです。彼女が自殺した原因なんか、これっぽっちも。

 彼女とはうまくいっていましたし、そりゃ口喧嘩くらいしたことはありますが それも些細なことですぐに仲直りしました。

 でも ひとつ そう ひとつだけ 心当たりがあるにはあるのです。

 ずいぶん前に僕の撮ったこの写真、白いサルビアが咲いていますね。

 ひるがえって、彼女の死体の傍らにあったというこの写真、サルビアの花咲く写真、彼女の血で全体が赤く染められて まるで赤いサルビアのようですね。

 ええ ええ ずいぶん前に僕の撮った写真 以前僕の好きだった人の写真、元は赤いサルビアの花畑が広がっていたのですが、いつからかそれが白いサルビアに変わっていたのです。

 いつからそうだったかなんて そんな恐ろしいこと 僕は考えたくもありません。

 

 


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