ひわの葉薬(トップ) > 掌編 > 13


 

黄泉戸喫

 近頃よく見る奇妙な夢。

 先ごろ死んだ彼が真っ暗闇に一人 スポットライト浴びてうずくまっています。

 近付いたらきっと死んでしまうと僕は思っています。遠巻きに彼を見守っていると、彼がなにやらブツブツつぶやいているのが聞こえます。僕は何とかしてそれを聞き取ろうとするのですが、なかなかうまくいきません。近付こうと一歩足を踏み出し ためらい それでも彼が何を言っているのか知りたくて知りたくて まんじりともせず目が醒める。

 仕事から疲れて帰ってきたある日 何とかして彼の言っていることを聞いてやろうと決意し 市販の睡眠導入剤を飲んで、そのまま就寝。

 溶暗。

 真っ暗闇にスポットライトの円の中心 屈み込んでいる彼が見える やっぱり何かブツブツ クチャクチャ つぶやいています。注意深く耳を澄ませ 全神経をつぶやきに集中させようと目を閉じた時、急に彼の声が明瞭になり

 

「おや おや 君は何故ここにいるんだい」

 

 どうやら見つかってしまった様子。僕は驚きのあまり、顔を上げた彼から目をそらせずその場から動けません。

 彼は青白い顔で「どうかしたか まあいいや」と言うと、またガックリ首を曲げてうつむきました。

 

「そのままでいいから聞かせてくれよ。俺の妻と子供は元気かい」

「あ、ああ……君が亡くなってからひどく落ち込んでいたみたいだけど、今は子供を育てなきゃならないからスーパーでレジ打ちのパートして頑張っているよ」

「そうか。あいつはしっかりしてるから、きっと今後もうまくやってくれるだろう。ありがとう」

「それより 聞いていいかな。一体何故 君は僕の夢に」

「うん そいつだ。お前も知っての通り、俺は先日 手術で治る病気で何故か死んでしまって 妻にも君らにも大変迷惑をかけてしまったんだが、その死んだ原因というのが正確には病気ではなくその時の俺の臨死体験でね」

「臨死体験って」

「魂だけがフワリと抜け出て迷い込んだ黄泉の国で、うっかり黄泉戸喫を口にしてしまったんだ」

「ヨモツヘグイ……って、日本神話のアレか」

「黄泉の国の食べ物だよ。ソレを食べることも黄泉戸喫と言うけれど。ギリシャ神話でも冥王ハデスが拉致したベルセポネに冥界のザクロを食べさせ、冥界の者にしてしまっただろう。他にもアイヌ神話やイヌイットの伝説などなど 様々な伝承が伝えるように、あの世の食べ物を口にした生者は二度と現世に帰れない。知ってはいたんだけど 食べてしまった。だから俺は死んだんだ」

「へえ……そりゃまた間抜けなことをしたね」

「まったくだよ。しかし死んでしまったものはもう仕方ない。改めて幽霊になろうとも思わないが、妻子が心配でね。といって 妻や子の夢に現れたらなんだかんだと余計な負担をかけるだろう。生前 会社では君と一番親しくさせてもらっていたから、きっと現世への未練が君の夢と俺の魂を結び付けたんだろうな。いずれにしても、君にはお礼をしなきゃあならない」

「え お礼なんて。別に大したことをした訳でもないし」

「いや 受け取ってほしい。コレだよ」

「何 コレ 干し柿?」

「黄泉戸喫だ。黄泉の国のカマドで煮炊きされた柿を干した物だよ。何 コレを君に食べてもらおうと言うんじゃない。お土産のようなものさ」

「お土産って どうすりゃいいんだコレ」

「狙った相手に食べさせるといい。ただの干し柿だから毒物じゃあないけれど、イチコロだよ」

 

 いや イチコロってそんな と言う間もなく目が醒め ほっとため息をつく間もなく右手に干し柿を握っているのに気が付いて

 まあ せっかく彼が善意でくれたものだし、使わなきゃ損ですよねえ。

 ……ってえ訳で おや いかがなさいました 顔色がお悪いですよ。

 ところで先ほどの干し柿のスープ お口に合いましたでしょうかね。

 

椿木

 この前、元刑事のおじいさんに聞いた話。

 

 彼がふと庭を見ると、窓のすぐ下 彼の部屋を見上げるようにして椿の木が一本 いつの間にか生えているのでした。

 生来の面倒くさがりやである彼は植木になどもちろん興味はなく、また彼は数年前に親を亡くした独り暮らしなので誰かが植えていったとも考えにくい。場所が場所だけに何だか気味悪く思った彼は、明日すぐに切り倒すことにしました。

 仕事から帰って来て 夕食を終えてからノコギリ片手にやって来ると 昨日までには確かになかった真っ赤な花が咲き乱れていました。彼は少しだけ不気味に思い、花を残らず引きちぎると木を切って裏山に捨ててしまいました。

 あくる朝。

 目を覚ました彼は窓の下を見て青ざめました。確かに昨日切り倒したはずの椿の木が、まるで何事もなかったかのように 真っ赤な花を揺らしているのです。

 彼は着替える間もなく大急ぎでノコギリを取ると、素早く木を切り倒しました。

 それでも翌日、やはり椿の木は真っ赤な花を咲かせてそこにありました。切っても切っても、彼が見ていない間に元のように生えてくるのです。引っこ抜いてしまおうとしても、彼の力ではどうにもなりませんでした。

 不気味なことが続いて身も心もスッカリ疲れ果てた彼は、知り合いの庭園工事業者に頼んでトラクターを貸してもらい 椿の木を引き抜いてしまうことにしました。

 頑丈な縄が椿の木に幾重にも巻き付いて、トラクターがそれを思い切り引っ張った瞬間 鉤爪でガラスを引っかいたようなすさまじい悲鳴が上がりました。運転席の彼がすくみあがっている内に悲鳴を聞いた近所の人々が続々駆けつけ、トラクターに引かれた椿を見て皆一様にアッと叫びました。

 トラクターの後ろに引かれた椿の木 絡み合った根っこがまるで檻のように 少女の腐乱死体を包み込んでいたのです。

 

コインロッカー前で

 コインロッカー前でいつものようにうつむいている彼に、意を決して「あのう、どいていただけませんか」と言いますと、彼は僕のお願いなど何も聞こえないような感じで、やわらかな微笑みをたたえつつ 言いました。

 

「幸せは、歩いて来ないんですよ」

「そうですね」

「だから、歩いていくんですよ」

「そうですね」

「けど私はもう疲れてしまったなあ」

「そうですか」

「うん。だから、また歩き出す前に、ちょっと休ませてほしい」

 

 僕は頭を掻いて、実に穏やかな彼の顔を見つめました。

 また歩き出そうにも、歩き出すための足などもうないのだから、いい加減 成仏してくれないかなあ。

 

ホンモノ

 近所のディスカウントストアの片隅で売られていた「本物の鬼払い用大豆(一袋\525)」を贈った節分の翌日、彼女は失踪してそれっきり。

 

墓誌

 墓場や霊園に行きまして 多少大きな区画へ赴き 少しばかりブラブラ歩いておりますと、整然と並ぶ棹石の傍らに しばしば「墓誌」と書かれた石碑を見かけます。墓誌は元は死者の筆跡を残したり後世にその功績を伝えるために造られたものでしたが、時代が下って棹石に戒名等を書ききれなくなった場合 石碑として墓誌が立てられるようになり、今では棹石に名を彫らず 墓誌で埋葬者を記名する事例も増えています。

 墓誌には右側から戒名・没年・俗名・享年を埋葬順に彫り刻んでゆきます。墓地を散歩すれば、まだ名の刻まれていない墓誌からビッシリ書き込まれた墓誌まで 様々見られます。

 Sさんが 「墓誌って何?」と聞いた彼女にそう教えてから ポツリポツリ 語りだした話。

 

 小学一年生の頃 Sさんはよく学校の近くにあったお寺の境内で友達と遊んでいました。女子も男子も混じって遊ぶクラスで、Sさんは特にその中のRさんという女の子と仲が良かったのだそうです。

 その頃、Sさんの通う学校ではとある噂が広まっていました。お寺に隣接する墓地に、呪われた墓があるというのです。

 その墓石は 昼間いくら捜しても見つからないのに 夜になると何故か出現するのだそうで これまでにも上級生が何人か肝試しに行ったことがあったようです。由来はよくわかっていないのですが、はるか昔 神隠しにあった子どもを祀っているとか いないとか。何しろ昼間には現れないのですから確かめようもなく。

 それを知ったRさんは、怖がりのSさんを叱咤激励しつつ 大人の目を盗んで家を抜け出し、真夜中 お寺の墓地へと向かいました。

 Sさんは最初こそ懐中電灯を持ったRさんに引っ付くようにして 嫌々ながらについていったものの、墓地の途中でどうしても怖くて足が震えてしまい、その場に座り込んで泣き出してしまったのだそうで。RさんはそんなSさんを叱り飛ばし、一人で墓地へ行ってしまいました。Sさんはあわてて追いかけようとしたものの腰が上がらず、そのまま泣いていました。

 泣いて泣いて、いい加減疲れてきた頃に、いきなり懐中電灯の光を当てられてSさんは悲鳴を上げました。子供がいなくなったと気付いた二人の親が、Sさんを捜しに来たのでした。

 Sさんは、それから先のこと よく覚えていないと言います。

 墓地の奥へ歩いていったRさんは いくら捜しても見つかりませんでした。墓地は切り立った崖に囲まれており、迷うはずがない袋小路でした。それにも関わらず、Rさんは肝試しのために家から持ち出した懐中電灯すら残さず 忽然と消えてしまったのです。

 

「Rさんのご両親は僕がRさんを連れ出したと言って責めて責めて、僕は学校でいじめられるようになりました。でも僕はRさんのことを本当に心配していて、彼女があの後どうなったのか知りたくて仕方なかったけど、怖がりの僕は高校生になってからようやく現場の墓地へ行けるようになったのです。ある日ふとあの噂 思い出して、Rさんがいなくなった時と同じように真夜中墓地へやって来て そうしてコレを見つけた」

 

 Sさんが一区画にポツンと立つ 懐中電灯で丸く照らされた墓誌 指差し

 

「右から六つ 名前が並んでいるでしょう。没年も性別もバラバラだけれど 享年はみんなRさんと同じ七歳。一番左側のこの子 これがRさんです。で この墓誌 名前が七つ揃ったらいっぱいになるんです。多分 七歳の子ばかりを選んで墓誌が刻まれているのでしょう」

 

 手足縛られて動けない彼女をSさんが墓誌前に突き飛ばして 柳葉包丁をスラリと構え

 

「これに気が付いた時 いなくなってから毎晩僕の夢に現れる彼女が何を言いたかったのか 僕はようやくわかったのです。お仲間がいっぱいになれば、墓誌に刻まれた子供たちは安らかに眠れるって訳ですよ」

 

 

 

 事情聴取を終えた後、警官らがヒソヒソと話し合っていました。

 

「あれ、信じられるか」

「七人も殺した幼女殺人犯の言うことなんか信じられるもんか。大体、寺の墓場からは奴の言っていた墓誌なんて見つからなかったし、死体は全部あいつの自宅から発見されているんだぞ」

「けど、最近誘拐されたあの子以外はみんな身元不明じゃないか。それに、お前は知らないだろうけど……」

「なんだよ」

「発見された七人の内の一人は、あいつが七歳の時に失踪した女の子にそっくりなんだ。服装から容姿から、肝試しに持ち出した懐中電灯まで 握り締めたままでさ」

 

永続

 精神病院二階の一番奥。鉄格子はまった扉の向こうから、囁き声が聞こえてきます。

 

「みな私のことをキチガイと言うけれど、私はキチガイなんかじゃありません。私をキチガイだなんて言うのはアノヒトに騙されている人たちなのです。私はキチガイなんかじゃありません。その証拠にこんなに頭がハッキリしていて、こんなにハッキリしゃべられる。

何故私がキチガイだなんて言われるかというと、アノヒトが私の家を燃してしまったからです。私はずっと押入れの布団の間に隠れて一部始終を見ていたのです。アノヒトは私の父を殺しました。母も殺しました。姉も殺しました。弟も殺しました。がんじがらめに縛り付けてガソリンをかけて生きたまま燃してしまったのです。私は押入れに隠れていましたが、火にまかれて死んでしまいました。

死んでしまった私は病院で生き返りました。なんということか、私は死んでしまったのにこんな風にまた帰って来てしまって、父も母も姉も弟も死んでしまっているというのに独りだけで帰って来てしまって、なんたること 何もかもアノヒトのせいです。何もかもアノヒトのせいです。私はアノヒトがゆるせない。

ゆるせないからこそこのように頭からアノヒト食ってやったというのに何故私がキチガイと言われねばならないのですか。何故アノヒトをこの世からなくしてしまっただけで こんな暗い穴倉に押し込められねばならないのですか。ああ、助けてください。どうか私を殺してください。アノヒトはもういないのです。私の目的は果たされました。私は帰らねばなりません。父と母と姉と弟が待っているのです。アノヒトは私が食ったのです」

 

 そうしていつも彼は 自分が殺した妻のように泣き出すのです。

 

ローティーン・ブギ

 親しかったクラスメイトに自信満々で書いた長編小説を読んでもらい、「ストーリーは盛りだくさんで奇抜なのに文章は切れ味が良くて無駄がないね。既存の小説にはない作品だね」と言われて喜び自己陶酔していたのですが、「ストーリーは猥雑でよくわからない上に文章は知識をひけらかすだけの箇条書きだね。小説と名乗るのもおこがましい単なる文の羅列だね」という意味だとのちに気が付くことになる当時の僕は思春期真っ盛りの中学生。

 

離魂

 眠っている彼女の白く長く柔らかな指をもてあそんでいると、フイにイタズラ心がわいてきて 出し抜けにキュッと強く引っ張ってみたら 指の皮がツルリ抜けて ヌラヌラ光る新しい指になり

 あわてたけれども彼女 だいぶ薬が効いているらしく グッスリよく眠ってちっとも起きる気配がない

 脱皮した後の彼女の指を恐る恐るなでさすり 試しに他の指も引っ張ってみると、こちらもまたツルリとキレイに皮が抜け

 面白がって彼女の身体の皮ツルリツルリ抜いて抜いて 顔の皮はがそうと彼女の顎つまんで下に引っ張った途端に彼女の皮膚がゴッソリ抜け 出てきたのはグッスリよく眠っている僕の寝顔

 

笑死

 長らく馴染みだった古書店が閉店するという当日 閑散とした店内 カウンターの前に座り込んで 閉店時間間際まで店長と話をしていると、店長がフト思い出したように奥から一冊の本を取り出しました。

 

「希少本はあらかた売ったり横に流してしまったりしたけれど、これだけはと思って取って置いたものなんだ。よかったら君 これ もらってくれないかな」

「え でもそんな貴重な本 僕にやってしまっていいのですか」

「かまわないよ。好きに使うといい」

 

 使うと って、何かのマニュアル本なのかなあ なんて思いながら店長から受け取った古本を開こうとすると

 

「いけない!」

「わあ! な、なんですか!」

「駄目だよ、それは開いてはいけない本なんだ」

「開いてはって、カミソリが突き立っているとか? 読むと呪われるとか?」

「そんなんじゃあ ないよ。まあ開いてもなんてこともないだろうけれど、もし何かあったら大変だからねえ」

「駄目ですよ、僕のような粗忽者にそんな大切な本を預けちゃあ」

「いや そうでない。そういう意味じゃあないんだ。これはね 読んだ人間の死ぬ日がわかる本なんだよ」

「ええ?」

「随分昔のことだけれども、その本を売りに来た人は風変わりだったから よく覚えているよ。四国のとある旧家に伝わっていた呪いの本だそうだ。といっても、その本そのものが呪いのアイテムという訳でなくて、所蔵していた旧家の主が呪われていたんだなあ これが」

「はあ」

「その主というのがともかく悪徳地主を絵に描いたような人物だったらしくてね。戦前だから、GHQが土地を分割してしまう前のことだ。小作人からしぼってしぼってしぼり尽くした金で裕福に暮らしていたらしい。で その主が小間使いの娘に手を付けた。娘は子を孕んだがろくに給金ももらえないまま難癖をつけられて家を追い出され、さまよい歩いて野垂れ死んだ。

それ以来主の一家に次々と不幸がふりかかる。正妻は割れるような頭痛に三日三晩苦しんだ末に絶命し、幼い子どもは井戸に落ちたり 寝所が火事になって焼け死んだり 突然に物が食えなくなって飢え死にしたり ともかくひどい死に方をした。

主は恐れをなして祈祷師や修験者を招いて色々に祓ったがどうにもならない。途方に暮れたところで、出雲の巫女が小さな白紙の本を寄越してこう言った。

『祟りがあまり強いので完全に祓うことは出来ないが、それほど死ぬのが恐ろしければこの本を毎日開きなさい』

主は言われた通りに白紙の本を毎日開き、不思議なことにその間は祟りもおさまった。新しい妻を迎え 子も出来て 五年ほど経ったのち、いつものようにあの本を開いた主は突然けたたましく笑い出して 家の者があわてて介抱するも笑いは収まらず ついに笑い尽くして息が絶えた。

つまりね 普段は単なる白紙でしかないけれど、死ぬ日になると突然に笑いが止まらなくなるくらいに面白いナニカが この本のページに現れる訳さ」

 

 笑い死にってのもなかなかぞっとしない。普段は白紙なのだから本物かどうかもわからないって、イワクもまたうまく出来ているものだなあ。

 その日僕は半信半疑で店長から本を受け取り、

 同じ職場の 憎くて憎くて仕方ないアイツを殺すと計画していた日 つまり今日、アイツにあの本を見せるべきかいなか逡巡している真っ最中。

 と いうか アイツを幸せに死なせるなんて絶対に嫌です。あの本を使えば捕まりはしないだろうけれど、犯罪者になってしまっても僕は能無しで彼女もいないし親もいないから失うものは何もないし、第一あの本が本物かどうかも疑わしい。

 けれどもし本物なら、その笑い死にしてしまうほど面白おかしいナニカとは 一体なんなのでしょう。並みのおかしさではないはずです。何しろ 文字通り 死ぬほど面白いナニカなのです。今まで誰も見たことのないナニカです。絵なのか、文章なのか、それともまったく訳のわからない記号なのか……

 部屋の真ん中でジッと本を見つめる内、僕はどうにも気になって 気になって たまらなくなり

 

 

 

 そして翌日、呼び出されて僕を訪ねてきたアイツが息の絶えた僕を見つけました。

 

黄昏時

 おや 前に見えるは もしや僕の知人でありますヤブ医者の雅巳さんでしょうか。もう何年も会っていないけれどあの後姿 間違いはない。けれど僕から声をかけるような人でもないし、積もる話はあるけれど向こうが覚えていなかったら仕方がない。さりげなく通り過ぎて呼び止められたら立ち話でもしよう と姑息な計算をして、僕はなにやらT字路で立ち尽くしている雅巳さんの横を通り過ぎて

 右の曲がり角を曲がったところで フト思い出したこと

 

 

 数年前の夕暮れ時 僕の知人であるヤブ医者の雅巳さんと鉢合わせになり、無視しようとしたところ袖にとりすがられて振り払いきれずに結局途中まで一緒に帰ることになって

 とりとめもないことをつらつらと話していると、数分して 雅巳さんはフト思い出したように足を止めました。

 

「ああ そうだ。今ちょっと思い出したんだが」

「なんですか。どうせ厄介なことなんでしょう」

「お前、逢魔刻ってぇのを知っているか?」

「もちろんですよ。日も暮れかける黄昏時のことでしょう。『黄昏』の語源は『誰そ彼れ』で、今 会った人が誰だかわからない。だからふとしたことで奇妙なモノに出会ったり、奇妙な勘違いをしたりする。だから、逢魔刻とも言う」

「うん。要するに、そこにあるのがなんなのかよくわからない という時間帯のことだな。その時代の労働者にとって夕方は仕事帰りか仕事中だから 必然的に最も判断力の鈍る頃でもある」

「で それがどうかしたんですか」

「魔というほど大袈裟でもないけれど、確かに夕暮れ時 俺も変な目に遭ったことがあるなあ と思い出してさ。何年か前の夕暮れ時 買い物から帰って来る途中に いつも来る道がどうもおかしなことになっていた」

「おかしなこと」

「左へ曲がる道が、その日に限ってT字路になっていてな。ええと、つまりだ、左へ曲がる道が、その日は右にも曲がれる道になっていたんだ」

「間違えたんじゃないですか?」

「俺もそう思って引き返したんだが、元来た道は見慣れた小学校のグラウンド沿いにずっとフェンスが続いているから 間違えようがないんだよなぁ これが」

「じゃ 工事でもしてたんですか」

「かもしれなかったけど、その時は狐につままれたような心持ちで引き返して 別の道で家に帰ったんだ。だがどうしても納得できなかったから次に通った時に確かめてみたら、その道は工事なんかしちゃいなかったし 右へ曲がる道なんかなかった。いつものように左へ曲がる角の道になっていたんだよ」

「へえ」

「おかしいなあ とずっと思っていた。次にもし右へ曲がる道があったら、どうにかしてどこへ続く道なのか知りたい と思った。だから数日前 あの時 あの日 あの夕暮れ時に もう一度あのT字路に出会って、これは良い機会だと思って 右へ行く道を行こうと思ったんだけど」

「だけど?」

「俺より先に、俺の横を通っていった奴がいてさ。そいつはなにも不思議に思っていないような具合で、迷いもなく右へ曲がっていったんだ。そうしたら 右の角を曲がって数歩 行ったところで そいつは穴にでも落ちたみたいにすっと消えてしまった」

「え」

「アスファルトの道路がずっと続いている道だった。穴なんか空いてやしない。やっぱりこりゃあ ただの道じゃない、と思って俺はおとなしく左へ曲がって家へ帰ったんだけど」

「まだ 何か」

「うん それが どうも 右へ曲がっていった奴の顔 見覚えがあるんだよなあ」

「へ?」

「誰だったかなあ どこかで見た顔なんだよなあ と思っていたら、思い出した。随分老けた顔をしていたけど 俺の横を通り過ぎて右の角を曲がっていったのは 確かに お前だった」

 

 

 そこまで思い出した時、曲がり角を曲がって数歩の地点 アスファルトから二本の腕がニュッと伸びて僕の足首をつかみ 見えない穴に引きずり込みました。

 

 


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