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都市伝説:エイズ・メアリー

「いつものバーで飲んでいた僕の隣に、真っ赤な唇をした魅力的な女性が座って話しかけてきました。

 美人に声をかけられるなんて経験が一度もない僕は舞い上がり、そのままホテルへ直行。で、まあ、筆舌に尽くしがたいことが色々あって、夜が明けて昨夜の余韻を楽しもうと、隣で寝ているはずの彼女を抱き寄せようとしたら腕は空振り。いつの間にか、彼女はいなくなっていたのです。

 すわ泥棒かとも思いましたが荷物はそのまま。財布も電話もカードも盗られていません。もしかしたら用事があって先に帰ったのかもしれないと思い、鏡の前で身支度しようと洗面台に立ってみると、真っ赤な口紅で

『エイズの世界にようこそ!』

 ……と、書かれていたのです。

 

 ……と、昨日彼氏から聞かされて頭に来た私はあなたを誘い、こうして一夜を明かしてしまった訳ですよさようなら」

 

 ……鏡にビッシリ書き連ねられた口紅の文字見て、僕はしばらく息も出来ませんでした。

 

おやすみ

 真夜中になると、彼らは各々しゃべり出すのです。

 

「今日もコンビニ弁当だったなあ、おやすみなさい。」

「私はねえ、角のラーメン屋の味噌ラーメンが好きなの。あの匂いがいいと思わない? おやすみなさい」

「ラーメンね……どうでもいい。おやすみなさい」

「あのねっ、あのねっ! あたしはアイスクリームがいっぱい食べたいの! おやすみ!」

「駄目よ、馬鹿ね。もうすぐ子供も生まれるっていうのにそんなもの食べていられないわ。おやすみなさい」

「子供か。新しい子か。……おやすみなさい」

「……男か、女か。おやすみ」

「どちらでもきっと可愛いよ。どんな子に育つんだろうね、楽しみだなあ。それじゃおやすみなさい」

「今度生まれる子には俺が一番近いんだ。今から楽しみだよ。おやすみぃ」

「お前のとなりって言ったらへその辺りか。へえ。おやすみなさい」

「羨ましいなあ。次はあたしのとなりに生まれないかなあ。おやすみ」

 

 ……ようやく全身の人面瘡が眠ってから、僕はへその辺りを撫でて「おやすみなさい」を言いました。

 

二編・(以下略)

その一

 愛しい愛しい君の素顔 見たくて見たくてたまらない

 君をビックリさせれば君の素顔見られるかと思ってダイヤの指輪プレゼントしてみたけれど、君はいつもの無表情

 僕でなく友達と会っている時ならばとお昼のカフェテリアまで君と友達を尾行してみたけれど、やっぱり君はいつもの無表情。

 いっそ君の顔に硫酸かけてみたらと思って(以下略)

 

その二

「最近、夜寝付きが悪くて寝不足なんです」

「じゃあ永遠に眠らせてあげましょう」

 

 そう言うと医者はニッコリ笑って鎌を振り上げ(以下略)

 

 

情熱

「お前って本当にドジで馬鹿で自意識過剰で、口を開けば自分のことばっかりで、どんなに嫌われたってちっとも他人に気を遣おうとしない奴で、だから俺はそんなお前が誰よりも好きなんだ」

 ……と さっきからつぶやいているE君の前に 大きな鏡。

 

虫の話

むしのはなしを してあげようか。

にんげんの からだには かぞえきれないほどたくさんの虫がいて その虫がうごめくから、いろいろな反応がおこるんだよ。

たとえば、あくびをするときなどは のどのおくにいるあくび虫がねている最中にごろりとねがえりをうつから つられてあくびがでるんだよ。

たとえば、なみだをながすときなどは 目のおくにいるなみだ虫がぐにょりぐにょりとうごきまわるときに涙腺を押すから そのひょうしになみだがでるんだよ。

たとえば急に首をくくりたくなったら あたまのなかでじさつ虫が脳のさいぼうをいたずらしてくみかえてしまうから せいぞんよっきゅうがうすれて しにたくなってしまうんだよ

おや きみ うたがっているね

うたがうなら証拠 みせてあげる ちょうどここに、じさつしたいひと いることだし ほら あたま さいてみれば きっとむしがウジャウジャいるはず

じさつしがんしゃだからってひとごろしはよくないって だいじょうぶ あたまをさくだけだから

ずがいこつ切りひらき のうみそをかき出して さあここにむしが    ……あれ きみ しんでしまった 

 

ジャック

 アメリカ留学から帰ってきた彼女 久しぶりに会うなり、開口一番こう言いました。

 

「ねえ。Jack in the boxって知ってる?」

「ビックリ箱のことだろ」

「日本語ではそうね。そのものズバリ ビックリさせるためにある箱よ。じゃあ英語のJack in the boxはなんだと思う?」

「いや、だから、ビックリ箱だろ?」

「そうじゃなくて。つまりJackの入ってる箱ってことでしょ。じゃあそのJackてのはどこのどいつだってぇ話になる訳よ」

「バネ仕掛けでビヨーンと跳ね上がるアレがJackだろう。多分、JohnとかTomみたいに適当につけた名前だよ」

「甘いわ。そんなんだったらEmily in the boxとかMary in the boxとか女の子バージョンもあっていいでしょう。なのに何故、Jackなのか! 何故あえてJackなのか!」

「何で興奮してんだ」

「話は19世紀末に遡るわ。とある海沿いの町で食料品店を営んでいたジャックという男がいた。ある日 店に強盗が押し入り、ジャックは抵抗したもののあえなく銃殺されてしまった……しかし死体は見つからなかったの。強盗たちが隠してしまったのね」

「ふうん」

「現場の血の状態や引きずった跡なんかから見て確実にジャックは死んでいるだろうけど、死体が見つからないことには捜査や裁判も難しいわ。警察は必死になって捜したんだけど、とうとう見つからなかった」

「死体はどこに?」

「一ヵ月後、海岸を歩いていた一組のカップルが波打ち際になにやら奇妙な木箱が打ち上げられているのを見つける。不審に思って厳重に釘打ちされた蓋をあけてみると、ガバアと勢いよく腐乱死体が飛び出てきたのよ!」

「それがジャックだったって訳か」

「そうそう。どうやら腐敗によるガスで冷蔵庫の内圧が高まり死体が押し出されてきたらしいの。この噂が流布してJack in the boxはビックリ箱を意味するようになったって寸法よ。そしてね……フフフ、この話を聞いた者は一週間以内に誰か一人に話さないと、目の前にジャックが現れてしまうのよ!」

「へ?」

「これ、アメリカのあたしが行ってたトコで結構流行ってる都市伝説なのよ。実はあたし、あんたに話すためだけにこの一週間誰にも話していなかったのー。アハハハー。超スッキリ」

「テメエ、帰って早々することがそれか!」

「なんとでもお言い! 腐乱死体のジャックに襲われればいいんだわ! バーカバーカ! お前のかーちゃんマルチメディア(©増田こうすけ)!」

 

 俺 あの子に何かしたっけ……?と疑問符で頭をいっぱいにしながら、僕はとりあえず駆け出していく彼女を追いかけました。都市伝説なんぞ一片も信じてはいませんが、このような嫌がらせをされては黙っていられません。

 しかし彼女 見た目の割に足が速く、僕が全速力で走ってもちっとも距離が縮まないのです。

 奇異な目を向ける通行人の合間を縫って ほとんど意地で追いかけましたが、どんなに走っても捕まえられず とうとう彼女のアパート前。彼女の部屋は一階にあります。畜生 逃げられたかと思った時 ドアの前にたどり着いた彼女が鍵を開けるよりも先に 恐ろしい勢いで扉が開き毛むくじゃらの青黒い手が彼女の頭つかんだかと思うとそのまま引っ張り込んで 扉が閉まり

 あわてて走ってドアを開けてみても誰もいない 家の中のどこを捜しても彼女はいない 窓もすべて鍵がかかっていて出口はなく

 僕に話すためだけに一週間誰にも言わなかったと言っていたけど、きっと彼女 アメリカと日本の時差を考えていなかったのだろう。

 

呪亀

 ふすまがガラガラッと開く音がしたと思ったら耳元で「なす」と囁かれるという訳のわからない夢を見ていると、唐突に鳴り響いた着信メロディに叩き起こされました。寝ぼけ眼をこすりながら枕元の時計を見れば深夜一時半。今日は朝も早いってえのにどこのどいつでありましょうか死にくされ と携帯電話を取り上げようとして ためらい そういやあこの着メロ『必殺!仕事人のテーマ』といえば、僕の知人の中でも歩くセレン化水素と評判のヤブ医者・雅巳さん専用メロディじゃあありませんか。絶対出てはなりません。そのまま携帯電話の電源を切り、さてもう一眠りしようかなと思った所で「おい」という野太い声とともに照明がスイッチオン。

 

「テメエ何勝手に電話切ってんだよ」

「うぎゃあああ!? ま、ま、雅巳さん!? 何故ここに! ちゃんとピッキング対策済みの鍵に替えたのに! なな何の用だってんですか!」

「特に意味はないが遊びに来てみた。今度からサムターン回し対策もしておくんだな」

「意味もなく深夜一時半に不法侵入しないでください。無職の雅巳さんと遊んでる暇なんかありませんよ。今日も六時に出社なんですから」

「無職って言うな。安心しろ。お前がそう言うだろうと思ってお前の会社は既に……おっと」

「今 何言いかけた。何言いかけたよ」

「知らなくていい。とにかく今日の出社は早くとも午後だから遠慮なく俺と遊ぶんだな。ところでお前、以前から医者という身分でありながら患者の治療でなく研究にばかり没頭して一体何をしているのだか と言っていたよな? 今日はそれを明かそうと思って来たんだが」

「ていよくごまかしましたね雅巳さん。まあ会社休みになるのは僕のせいじゃないんでいいんですけど……まさかその研究の成果をここに持ち込みやがったとかいうことなら今すぐ帰ってください」

「そのまさかだが帰らん。まあお前に危害の及ぶようなもんは今の所持って来ていないからおとなしく聞きやがれ。ほらこれ」

 

 勝手に上がりこんできて傲岸不遜も甚だしい雅巳さんに少なからずの憤慨を覚えながらも、無造作に取り出されたソレを見て僕は思わず身を乗り出しました。

 色あせた小さな骨片に入りきらないほどビッシリと 細かい装飾が施されています。

 

「中国河南省に行った時に仲良くなった骨董屋からもらった。お前、甲骨文字はわかるか?」

「いやわかりませんが由来くらいなら知っています。正確には亀甲獣骨文字といって、中国最古の王朝といわれる殷が主として卜占に用いた神託文字ですよね。漢方薬として利用されていた『竜骨』をよくよく見たら文字らしきものが書いてある こりゃスゲェってことで発見されたとかいうありがたみの薄さが素敵だと思ったのでよく覚えてます。しかしこんな貴重なもんを よくもまあ無事に税関パスして持ちこめたもんですね」

「任せろ。俺は税関通過にかけてはプロだ。だがそいつは殷王朝の使っていた竜骨ではない。近年呪術用に飼育されていた亀の甲羅裏面の破片だ」

「じゅ、呪術用?」

「甲羅裏面 つまり腹甲に文字を刻むのは、背甲を天 腹甲を地 亀全体をこの世界すべてに見立てているからだ。地にいる者が天のお伺いをたて願いごとをするという意味で、古くから卜占や呪術・幻術に使用されてきた。躍進する現代中国にあってもいまだに土着の信仰を持ち続け文明と距離を置いている少数民族は相当数存在する。だからこういった古代から伝わる呪法も、少しずつ変容しながらも生き永らえているという訳だ」

「あの、さっきから呪術だの呪法だのとネガティブな方面にばかり話が進んでいるのは何故ですか」

「よく気付いたな。理由というのは他でもない。お前の持っているその甲羅の破片は主に相手を呪うために飼われていた亀のもので、俺にソレをくれた奴はそういう呪い道具の問屋みたいな商売をしていた」

「観光客相手のいかがわしい商売に騙されたんじゃないんですか。雅巳さん」

「ところが実際に亀の飼育場に行って一匹分けてもらったりしちまってさ。日本に持ち込んで研究材料に」

「はああ!? 税関は!」

「お前さっきから税関税関うるせえぞ。で、そのメス亀を日本に持ってきて遺伝子解析を駆使して人工生殖し新たに個体を誕生させるに至った」

「……なんでそんな金にならなさそうなのに金のかかる研究をしているのですか雅巳さんは」

「楽しいから。で。な。俺はちょっと勘違いしていたんだが、その亀は生後 呪文を刻まれる訳じゃあないんだ」

「へ」

 

 そういって雅巳さんが後ろから取り出したのは、三十cmはあろうかという大きなリクガメ。気軽に渡されて思わず落としそうになるも、見た目はごくごく普通の亀です。ただ腹には幾分茶味がかった色で、さっき渡された骨片に書かれていたような小さな文字が 隅から隅まで細かく書かれているのです。

 亀を抱えて怪訝な顔をする僕に、雅巳さんは言いました。

 

「少なくとも紀元前1300年頃には存在していたとされる殷王朝からの研究の成果なんだろうな。生まれたばかりの亀の腹甲にもあらかじめ相手を呪う呪文が存在しているんだ。親から受け継いだ呪文状の模様がな。決して後から書き足されたものでないことは、一から生育した俺が証明する」

「へえ……じゃあこの呪文は一体どんな呪いをかけるものなんです」

「単純に言うと、一蓮托生。亀の命が尽きる時、相手の命もついえるというわかりやすい呪いだな」

「最初から模様として呪文がおなかに入ってるってことは、相手の名前か何かを後から彫るんですか?」

「いや。細かい手順は省くが、産卵間近の親亀に相手の顔と名前を覚えさせるんだ。現代では写真を使えば簡単だな。呪いを封じようとして腹甲を削り取る奴が続出したんでそうなったらしい。この亀の場合は既に色素が奥深くまで染み付いているため、削り取ってもどうにもならん」

「まあそうでしょうねえ……で、雅巳さんはこの亀に誰の顔と名前を」

「お前」

「…………は?」

「いや俺の知り合いってお前しかいねえからさ」

「てめ おい」

「呪うつもりは毛頭ないんだが、無事に亀も出来ちまったことだし 文字通りの一蓮托生ってことで彼女もなく寂しいお前にこの亀をやろうと思って。まあ亀って小さいのでも二十年は生きるっていうし、この大きさなら五十年くらいは生きるだろうからお前の寿命には事足りるさ。大丈夫 大丈夫」

「これっぽっちも大丈夫じゃありませんよ! ああ もう 今度こそ本当に絶交の絶交です! 二度と僕に近づかないでください! 今すぐ出てけ! オラ!」

「じゃあ名残おしいがまた来るぜ親友」

 

 結局僕の話などちっとも聞かずに雅巳さんは亀を置いて帰って行きました。

 一体何を考えているのだかわかりませんが、とりあえず亀を育てていれば何事もないのでしょう。ノシノシ歩いている亀を見ていて急に疲れた僕は、そのまま布団に倒れこみました。

 目覚めた時にはベランダの網戸が内側から破れていてあの亀の姿はどこにもなく ああもう僕はどうしたらいいのだか

 

回転鏡

 結局の所 彼はツマビラカな自分を発見できなかったので失意のあまり自分の殻に閉じこもってしまったのです。今では彼は日がな一日飽くことなく 部屋の隅の三面鏡を覗きながら、鏡の中の何十人もにその日の妄想を語ってきかせます。時に熱狂して立ち上がり拳を振り上げ 時に肩を落としうつむきながら涙を流し、けれども一秒たりとも口を休めることがありません。

 何時間も何時間もしゃべり続ける内、彼はようやく思い出したように 一人の少女の話を始めます。一言一句違わず、テープレコーダーを再生するように、いつも決まって同じ描写で同じ少女を語ります。

 

 嗚呼 あの少女の可憐さに比べれば花や太陽など値打ちのない石ころも同じだ。木漏れ日が柔らかなスポットライトとなってそよ風になびく少女の髪を照らす、その胸のときめくような輝きといったら! 小さな足で池のそばを駆ける、あのウサギが跳ね踊るような可愛らしいさまといったら! もぎたての水蜜桃のような瑞々しいうなじといったら! 千や万の言葉を並べても、彼女の美の恐ろしいきらめきを明らかにすることは出来ない。

 意気地のない僕は池の木陰から少女をジッと眺めていた。毎日毎日、ヒッソリと彼女を見つめていた。僕は是非とも彼女と話をしたかったのだけれども、彼女は僕の話なぞ聞きやしないのだ。聞くことなど出来やしないのだ。

 

 嗚呼 アナタは今 ワタシの話をしていらっしゃるのね。アナタのお話は楽しいのかしら。悲しいのかしら。けれどもワタシはアナタの話を聞くことが出来ませんの。一度でいいからお聞きしたい。両の耳でしっかりと、一度でいいからお聞きしたい。アナタのお話はさぞ楽しいのでしょうね。

 

 ああ なんてこと。君が僕の話を聞けないというのなら、僕に僕の話をするというのはドウだろうか。ネエ、アナタは僕の中にいるのでしょう。アナタの生肉はとっくにワタシが飲み込んでしまっているのだもの だから ネエ アナタは僕の中にいるのだ ソレならばこの鏡の中に コレ以上ないほどツマビラカに細分されたワタシの姿をみつけられる ハズ デス。

 

 ヤア それで 彼は完全に発狂してしまったのですね。そう、発狂してしまったのです。アラアラ何て可哀想なお人なのでしょう ワタシ涙が止まらない。けれども僕も似たようなものです。鏡の中をどれほど捜せど ツマビラカな自分が見つからナイ。

 

かまいたち

 クシャン と誰かがクシャミをしたような音がしたのですが、辺りはすでに真っ暗闇。街灯すらない一本道は、遠くの町明かりでようやく十m前が見える有様です。

 ひとけのまったくない道ではあり 少し不思議には思いましたが、自転車のライトだけを頼りに進んでいた僕は、これといって確かめることもせずに帰路を急いでいました。思いもかけず遅くなったバイトの帰り、早く帰らないと学生寮の門が閉まりやがるのです。ペダルを踏む足にも否応なく力がこもります。

 クシャン クシャン と今度は続けて二回の物音。誰かのクシャミなら既に通り過ぎたはずなのに、と僕が思う間もなく、クシャミは僕のすぐ近くで響き始め

 クシャン クシャン クシャン クシャン

 誰もいない一本道。思わず自転車を停めますと、同時にクシャミの音も止まりました。注意深く周りを見渡してみましたが、静かな闇の中にはやはり誰もいません。

 冷や汗をかきつつも 気のせいだと言い聞かせて自転車をこぎ出し、そしてまた十mもいかないうちに

 クシャン クシャン クシャン クシャン

 僕のすぐ近く、まるで追いかけているようにクシャミの音が聞こえ もう一度自転車を停めてみてもやはり誰もいません。

 いやあな汗がしたたるのを感じ、僕は素早く自転車を起こして全速力でこぎ出しました。

 頬を冷たい汗がたらたら流れ落ち、ペダルをこぐ足の筋肉が張り、僕は決して後ろを振り返らずに一本道の終わりにある街灯を見据え それでもまだクシャミはやまず

 クシャン クシャン クシャン クシャン

 滑り込むようにして街灯のそばに自転車を停め、僕は後ろを振り返りました。

 闇の向こうへ一本道がずっと続いているだけで、誰もいません。クシャミの音も聞こえません。

 僕は訳もわからず、肩で息をしながら自転車にもたれかかるようにして座り込みました。そして ふと サドルに何かビニール袋のようなものがくくりつけられているのを見つけました。

 さっきの音はクシャミではなく、ビニール袋が揺れる音だったのでしょうか。

 急に緊張が抜けてしたたる冷や汗とともに安堵のため息をもらし、けれど僕 そんなところに ビニール袋なぞくくりつけた覚えはないと思いなおして

 恐る恐る袋を開けてみると 中から出てきたのは、きれいに二つそろった 人間の耳

 ……そういえば僕の頬をしたたるしずく 汗にしては、量が多い なあ

 

ほら、そこ

 疲れきった顔をして、彼が言いました。

 

「実は俺 最近恐ろしいんだ」

「ふうん。何が?」

「俺が行く所 行く所 必ず長い髪の毛が落ちていてね」

「そりゃ 気にしすぎってもんじゃあないかな」

「そんなことはない。俺は見ての通り 髪の毛は短い。染めてもいない。なのに朝起きた時 仕事で机に座っている時 会議中 入浴時 寝る前でさえ、必ず俺のそばに茶色くて長い髪が落ちているんだ。当然 恋人のものって訳じゃない。知らない奴の髪の毛が……」

「それはいつから?」

「一週間くらい前かな。最初は気にしなかったから 曖昧だけれど」

「じゃあ君 一週間くらい前に女の子に何かしなかったかい」

「な 何を失敬な」

「だって、ほらそこ」

「え?」

 

 後ろ振り返ってもやっぱり彼には見えないらしい、彼の背中にピッタリくっついている 長い茶髪を血まみれにした女の子の恨めしそうな顔

 

 


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