「遊女チヨジ」の歴史背景


 解説というほど大げさなものでもないですが、本文中にも出てきます遊女の歴史や生活についてちょっと付記しておきます。

 個々の事例については語りつくせないほどなのですが、先達の素晴らしい資料が沢山あるので、あまり遊郭に馴染みのない方向けにわかりやすさを重視し ものすごく大雑把にまとめております。

「遊女」   ・売春婦としての遊女   ・遊女の階級
庶民と遊女   ・遊女の名称  ・廓言葉
遊女の死   ・遊女の愛   ・作中の「遊女」と「女郎」


 

「遊女」

遊女とは売春婦のことですが、語源にまでさかのぼってみますと最初は踊り子や歌い手の女性たちを指していたようです。これらの女性たちは決まった住居を持たず旅(遊行)をしながら暮らしていたので、売春婦という意味ではなく 旅する女という意味で「遊女(あそびめ)」と言われていました。

旅をする女性は芸能や売春で路銀を工面していましたが、危険のつきまとう商売柄 仲介者を置いた方が便利で安全ということで、斡旋屋を介する者が現れ始めます。そしてしだいに旅費ではなく生活費を稼ぐために定住して売春する遊女が現れ、また客と遊女の仲介として遊女屋が出現します。この辺りが売春婦としての遊女の始まりと言われています。

ちなみに昔 遊女屋は「傾城(けいせい)屋」と言われており、「廓」「遊郭」という呼び名が登場するのは官許の遊女屋が現れてからのことになります。

 

売春婦としての遊女

古代日本には貞操観念というものはなく、従って売春という感覚も言葉もありませんでした。気の合った者同士で一緒に暮らそうが別れようが特におとがめもなく、そもそも結婚の概念がなかったようです。

ただ、子供が生まれた場合は女性が引き取って育てていたので、男性は責任を問われない代わりに親権を認められていませんでした。平安期の貴族社会では、一つ屋根の下に住むのではなく 男性が女性の元へとやって来る通い婚が一般的だったのはよく知られています。

時とともに結婚の観念が変わっていき、男女互いに「操を立てる」ことに重点が置かれるようになります。鎌倉幕府までは女性の地頭が認められたりもしていましたが、家督制度や家長制度が厳密化していくと女性の立場が次第に低くなってきました。

その後また時代は下り、1603年に自称・出雲大社の巫女の阿国が始めた阿国歌舞伎が京都で大流行します。それまで男性だけだった要素集団に女性のみで構成される集団が出来、男性の人気を集めるにつれて しだいに歌舞伎を演ずる女性たちが売春をするようになりました。

結局 風俗を乱すとして女歌舞伎は1629年に幕府が禁止したものの、女歌舞伎流行から禁止までの間に、徳川幕府は遊女屋を認可(放置)することにしています。

この時 正式に認可されたのがのちの吉原である葭原(よしわら)遊郭です。設置されたのは1617(元和三)年。これ以降 公娼制度(ただし認可しただけで助成金などは無し)が始まり それに伴って私娼が摘発されるようになりました。

摘発された私娼は官許の吉原へと送られ、三年〜五年の年季を勤めることとなります。彼女らは「(やっこ)女郎」「けいど女郎」と呼ばれ、岡場所遊里(摘発された女郎が送られる遊郭)は値段の安さもあって大変繁盛しました。

ただ、女衒によってある程度の容貌であると見込まれ、幼い内から教養を身に付けさせられる公娼とは違い、当然のことながら私娼は年齢・容姿・教養の有無を問いません。元私娼の素人女郎が送り込まれ またそこが人気を博することによって、それまで諸芸に通じ容姿端麗な上妓が好まれていた吉原が次第に変容していきます。

安値の遊女が増えるにつれて上妓は減少し、遊客の幅が広くなり、侍だけでなく町民や商家の者も多数訪れるようになりました。これによって、元私娼のいる岡場所遊里と公娼のいる遊郭との差があまりなくなっていきます。

最高の花魁である太夫も、吉原では1760年の玉屋・花紫を最後にいなくなります。

 

遊女の階級

遊女にも、稼ぎや容色教養によって階級があります。吉原が富豪粋人の遊び場だった頃は階級の高い遊女が好まれましたが、前述したように庶民化が進むと位の高い遊女は次第に減少し消滅していきます。

当初、吉原官許の際には太夫と端女郎の二種類しか階級がありませんでした。時代が下り、更に厳密な階級化が求められるようになると、太夫・格子・つぼね・端の順になり(四大遊郭のひとつ大阪の新町では、太夫の次は格子でなく天神と呼ばれていました)、最下級の切見世女郎が加わります。

切見世は一定の時間ごとに客を取る女郎屋で、一般には三十を超えて公娼として客を取れなくなった者や 足抜けを企てた者、摘発された私娼などがあてがわれ、容色やサービスの質自体も 他と比べると全体的に劣っていたようです。

この内 花魁(寛文期以降の呼称)と呼ばれたのは太夫だけでしたが、これら上級遊女の消滅とのちに加わる散茶女郎の格上げによって、散茶のみ花魁と呼ばれるようになります。

散茶は、庶民化の進んだ色町の象徴的存在です。それまでの上級遊女は嫌な客の相手はせず、逆に客を「買い手ども」と見下していたりもしましたが、散茶女郎は誰にでもわけへだてなく色を売るので、振られる心配がありませんでした。色町の庶民化が進んだとはいえ、庶民にとっては遊女を買うことは決して安い出費ではなかったので、散茶女郎の方に人気が集まることになります。

太夫・格子の消滅で一位となった散茶女郎は、更に三つに分化していきます。「呼出し」(初会に揚屋を通す)、「昼三」(昼見世で金三分)、「付廻し」、これらすべてが花魁と呼ばれるようになります。

……ちなみに、上述した表記はすべて江戸吉原のものです。四大色街として吉原と覇を競った大阪新町、京都島原、長崎丸山などでは独自の階級制度がありました。

 

庶民と遊女

江戸後期になると、男のたしなみとしても「廓遊び」は一般化していきました。落語などでは、結婚後も遊郭に行く夫に妻が遊び賃をやる場面も見られます。

その頃の記録に残っている遊郭は悲惨や堕落の場所ではなく、華やかで活気に溢れた場所です。そしてまた、宵越しの銭を持たない江戸っ子が ここぞとばかりに見栄を張る場でした。実際、売春以外にも遊郭では(お金次第で)盛大な宴を催す場所というイメージが庶民にはあったようです。

また、建前ではありますが、本気の恋愛をしにいく場所でもありませんでした。擬似夫婦の関係やお気に入りの妓と小粋な会話を楽しみ、性欲を発散し、極楽を謳歌して大門をくぐり 元の日常に帰っていく というのが吉原遊びの流れです。現代の水商売とあまり大差ない意識だったと考えればいいでしょうか。

その他の地域でも、宿場や街路を私娼が出入りしていたため非常に身近だったようです。特に高名な寺社の周辺には、必ずといっていいほど遊郭があります。参拝客の増加を当て込んだ寺社側は黙認、参拝客は「○○参りに行く」などと女房に言い訳をして、参拝を済ませてから遊郭で遊ぶという寸法です。

宿場もまた男性が集まる場所でした。女性の旅行は自由ではなかったので、宿場には多数の男性客が集まります。次第に旅人の泊まる宿は遊郭化していき、旅人を引き込んでは飯盛り女と呼ばれる給仕兼娼婦を客にあてがっていました。もちろん宿泊費より随分高くつきますが、官許の遊女を買うよりはずっと安く済みました。

東海道五十三次にも旅人留女として女性が描かれていますが、時代背景から言って彼女らも恐らくは飯盛りでしょう。下はその図です(画像提供:Solmare.com)。客引きの女性は怪力で、一度捕まったら逃げられなかったそうです。

三十六図 御油・旅人留女

このように遊郭は大変身近で、かつ特別な場所でした。

来日外国人たちは、長崎丸山遊郭における娼妓としての役目を終えた女性たちが、ごく普通の結婚をしたり 売春していた過去を後ろめたく思わないことに驚いたようです。

また、宗教的な要因もあります。姦淫を禁じるキリスト教よりも、仏教の性倫理は多種多様です。女犯を禁じる宗派もあれば、フリーセックスを肯定する教義もあり、庶民の間でも人によってかなり感覚が違っていたようです。「慎ましく献身的な女性」という理想像は、明治以降になってようやく庶民の間にも根付くようになった価値観と言えるかもしれません。

当時決して女性の人権が尊重されていたというわけではないのですが、このように江戸時代まで売春は特別なものではありませんでした。しかし異文化が本格的に流入してきた明治以降になると、世の風潮は売春婦を軽蔑していくことになります。この頃発布された娼妓解放令は、娼婦たちを「牛馬も同じ」とすることで、女郎屋の解体を目指しています。

……とはいえ本格的に売春が禁止されるのはそれから何十年も後で、しかもソープという形で今も残っていることを考えると、売春を巡る事情はかなり複雑です。

そして当然のことながら、遊郭以外でも明治以前の記録は女性の視点を欠いたものがほとんどではあり、江戸期の女性たちが実際に遊郭や遊女をどう思っていたのかはいまいちわかりません。

 

遊女の名称

前述したように、初期の遊女は旅する女として「あそび」「あそびめ」「うかれめ」と呼ばれました。時代が下るにつれて名称も多様化し、また形態や活動場所なども変化していきます。

源義経の愛妾である静御前で有名な白拍子は、歌って踊れる遊女のことです。この他、人形芝居の傀儡師、寺社の建築・改修資金を集めるため諸国を漫遊する巫女、比丘尼、飯盛女、湯女(1633年頃娼婦化)、舟饅頭、茶立女、地獄、白人などなど。隠語まで含めると相当数にのぼります。

……が、これらの名称で呼ばれた女性が実際に売春していたか否かは別です。芸者や舞妓は基本的に売春はしないことになっていますが、見世や客や妓本人によってだいぶ違ったようです。名前は芸者屋でも実際は売春宿、という例は枚挙に暇がありません。

ちなみに吉原では売春しない芸妓と売春する娼妓は区分されており、金をもらえば帯を解く半娼芸者は『けころ』と呼ばれて軽蔑されました。のちに『けころ』は不美人の隠語にもなります。

 

廓言葉

遊郭でのみ使われていた、俗に言う「ありんす言葉」です。廓言葉と書いて「さとことば」と読みます。

最初京都嶋原で用いられていた言葉でしたが、吉原でも取り入れられるようになりました。江戸は移民の町として栄えましたので、様々な地方から入ってくる遊女見習いたちの言葉遣いを矯正する役割も果たしました。

当然ながら客側は普通の言葉遣いでしたが、通人などは戯れに廓言葉を真似して遊女をからかったりもしていました。なお、男女の一人称がはっきりと区分されていなかった時代ですので、男性が自分を「わっち(私)」と呼んでも特に不思議はありません。

ただこの廓言葉、見世ごとに言葉遣いは異なり、たとえば「〜です」は「〜でありんす」だったり「〜ざんす」だったりします。

余談ですが、一昔前の漫画によく出てくるお金持ちの女性が「〜ざます」というのは、廓言葉からきています。

 

遊女の死

遊女はよっぽどの上妓でない限り、粗食や過労、性病、妊娠、折檻などに常に悩まされることになりました。また、昼夜を問わず客の相手をする心労も相当なものでした。江戸時代ではないのですが、昭和初期の遊女は一日平均して五人以上の客を取っていたようです。大正時代、娼妓として売られた森光子の『光明に芽ぐむ日』によると、一日十二人を相手にすることもありました。

生理中も見世側が許す休みは二日程度であり、それ以上休みたければ馴染みの客や間夫(恋人)に来てもらうか、『身上がり』といって自分で自分の玉代(花代)を支払わなければなりませんでした。借金が増えることを恐れて二日の休みも取らないで働く妓は多く、その分 体を壊すことになりました。

子宮や卵巣などの癌、子宮内膜症、性器の傷からの感染症など、遊女は様々な病気の危険に晒されていましたが、一番恐れられたのは梅毒です。有効な治療法のなかった時代、梅毒は廓の病として広く知られていました。梅毒は元寇の時代日本にもたらされたといわれ、病状はゆっくりと進行していきます。一度目立つ症状が出てから二年から三年ほどの潜伏期間があり、当時の迷信として一度梅毒にかかったらもうかからないと言われていたため、その間大勢の感染者を出すことになりました。梅毒は感染後、十年ほどすると脳や神経を侵されて死に至ります。

また病死だけでなく、思いつめた客に殺害されたり、心中死したり、見世側の私刑によって死亡したり、過酷な生活に耐えられなくなって自殺する遊女も多くいました。1826年の大阪では、折檻の様子を見た廓の少女四名が自殺しています。

折檻については歌舞伎『助六縁江戸桜』に登場する傾城・揚巻が馴染み客の意休に啖呵を切る場面にもある通り、身体に目立つ傷をつけないように小刀針を用いる責め、水責め、蚊責め、鞭打ち、拘束などがありました。主に盗みを働いたり客を怒らせてしまった遊女に対して行われましたが、時には折檻が行き過ぎて遊女がそのまま死んでしまうこともありました。

吉原遊女が死亡すると、俗に「投込寺」と呼ばれる共同墓地に埋葬されます。ここは無縁仏を葬る場所で、三ノ輪の浄閑寺が有名です。浄閑寺には現存するだけで数千人に及ぶ遊女の記録が残っており、それを辿ってみると死亡時の平均年齢は二十二歳前後となっています。遊女の年季明けは二十八歳ですが、それ以前に死亡する者も多かったことが記録の上からも窺えます。

余談になりますが、玉菊灯篭で有名な吉原の玉菊、幾度となく芝居の題材となった大阪新町の夕霧太夫は、ともに全盛をうたわれながら二十四歳で死没しています。

 

遊女の愛

稼ぎのほとんどを見世に取られ、上妓であろうと心中死や逃亡防止のため めったに外出を許されなかった遊郭では、遊女たちはそれぞれ技法を駆使して何とか客を取ろうとしました。これが手練手管と言われる遊女の工夫です。要するに恋(本気かどうかはさておいて)の駆け引きです。

そうして相手を自分に夢中にさせていくのですが、いくらプロの遊女といえども情にほだされてしまうことはもちろんありました。

遊女は売色家業ですので「操を立てる」ことは出来ません。遊女は何とかして、恋い慕う相手に自分の愛を証明する必要がありました。気持ちを証明しようとするこの方法は、総じて『心中立て』と呼ばれています。

現代で心中といえば愛し合う二人一緒に死ぬ情死しかありませんが、昔は色々な方法がありました。具体的に挙げてみますと、軽いものから順に「誓詞」「誓紙」「髪切り」「入れ墨」「爪剥ぎ」「指きり」「情死」があります。

「誓詞」は口約束で、「誓紙」は誓約書です。初期の頃はお客もこれで満足していたようですが、やはり時代が下がるにつれて誓約書に血判を押すようになったり、女性の命とも言われた髪を切る(「髪切り」)ことなどが要求されるようになっていきます。

これでも足りない場合は肌に相手の名前を入れ墨しあったり、爪を剥いで相手に誓いを立てるといった 少々のちの商売に差し支えそうな行動をとる方法も考え出されました。しかしながら、他人の爪を買い取って荒稼ぎする知能犯的遊女も現れ、指を切って落とす所まで至ります。

けれどもやっぱり指も偽造されました。死刑になった罪人の指を流用したり、シンコと呼ばれる粳米の粉を練って彩色し トビの羽を加工した爪を付けて偽の指を作ったり、様々な方法が用いられています。

究極の心中立ては、情死です。現代では心中というと情死を意味しますが、これは最後の最後 切羽詰った方法でした。

心中物の元祖である近松門左衛門作の浄瑠璃『心中天網島』以前から心中が増え始め、『心中天網島』が絶大な人気を博したのちはますます流行してしまいました。困り果てた奉行所が1722年に心中狂言の禁止令を出したのは有名な話です。

心中が流行してから、口だけの愛を語っている内に相手の方が本気になって無理心中を迫られる遊女が出てきます。このため見世側は不寝番と呼ばれる監視役を絶えず見回らせ、また遊女にも万一の時のために護身用の剃刀を与えるようになりました。

 

作中の「遊女」と「女郎」

作中では「遊女」であるチヨジと他の「女郎」を区別して描いていますが、役職として特に違いはなく、またこの頃「遊女」という呼び名が衰微していた訳でもありません。

 


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